2007年 09月 07日
モノを見る目 デッサン~覚書 |
お風呂につかりながらふっと思い出したことを書きます。
今までの人生の中で、1年だけ、「デッサン」だけをしていた時がありました。
その一年、わたしは毎日毎日一年間、白い紙に、
黒い線を描くデッサンだけを一日中繰り返していました。
そのときのことをちょっと書かせていただきます。
いわゆる洋画家の養成学校のようなところで、
午前中はクロッキーと呼ばれる授業
10分か15分刻みで裸婦のモデルさんがポーズをつくり、それを鉛筆で
B3サイズのワラ半紙に鉛筆で写し取ります。
5分休憩し、またもう一度分。都合6~10枚くらいのデッザンを毎日
月曜から土曜まで繰り返します。
午後は、石膏像のデッサン。
1m以上ある石膏像を、1m以上ある画用紙に、木炭の枝(?)で「原寸サイズ」で
デッサンをします。
1週間で1つの石膏像のデッザンを仕上げます。月曜日に描き始め、
その次の月曜日が講評日。
なので、日曜日もずっと描いていました。
厳しい授業ということではなく、画家志望の学生ばかりが集まり
画家になるために、みな必死になっていました。
若い画家は食べていくのは大変です。
それでも絵描きになりたいとおもって、必死にやっている人々がまわりに多くいました。
わたしも日曜日も教室に忍び込み描いていました。
みんなの前でボロクソに言われるのが恥ずかしいので、
やっていたのかもしれません。
その学校のデッサンの教え方がちょっと変わっていました。
ちょっと想像してほしいのだけれど、
デッサンって、やったことがある人はわかると思うけれど
白黒の陰影で対象物を立体的に表現することが目的で行うのです。
だから、美大受験などではよくあるデッサンは、
影は黒く、明るい部分は紙の白い色を生かして、黒くしないというのが一般的です。
それと、背景を黒く描くことで、背景との色の違いや、距離感を表現するのです。
しかし、そこの授業は少し変わっていました。
「石膏は白い」ので、影を黒く描くのはするのはおかしい。
背景を書いて、石膏像を表現するのは駄目
と言うルールでデッサンをするのです。
まあ言われてみればもっともなことで、
石膏像は立体的なので影はできるけど、白いのです、
なので、陰影を出すために影を黒くするのは、表現する方法(仕方)でしかなく、
その石膏像の本来の色や形を無視した表現の仕方であるから
間違っている。ということだそうです。
もっと言えば、例えば、白い石膏像の代わりに、
黒い猫の剥製が置かれていたとします。
黒い猫は、黒ですから当然全体が黒くなります。
陽の光が当たっていても、明るい部分は白くはなりません、
だって黒猫ですから。
そのため、デッサンで表現する際に、
猫の本来もっている黒猫の黒と、立体感を表す陰影の黒は
「違う」黒を描くことになります。
それを、1つの鉛筆または木炭の「黒」で表現し分けるのです。
バックを書くのは駄目、というのは、
描く対象物をいかに正確にとらえるかを学ぶ授業で
対象物以外のものの力をかりて、
「比較」することで対象物をとらえるというのは、
廻りの力を借りて対象物を見ているということで
これまた、ちゃんと対象物を捕らえようとしていない、ということなのです。
ちょっと想像してください。
その授業で目指している一番美しいデッサンというのは、
たとえば、真っ白い壁の前に、白い石膏像が置かれている状態、
陽の光は正面から当たっている。
対比できる背景は白だし、石膏像も白、陰影も正面から陽があたっているため
ほとんど陰影がない。これを描くことです。
普通のデッサンでは、とても形に表すことは困難です。
しかし、この授業を受けていてひとつのことに気がつきました。
確かに描くことはとても困難だけれど
いかに、白い壁の前に白い石膏像が置かれていたとしても
人間の目で見たときには、
形も、陰影も、立体感もちゃんと見分けることができるのです。
ただ描くのが難しいだけなのです。
人の目が見分けられるものを、いかに画用紙の上に、その人が見たとおり
写し取ることができるかが、画家を目指す人間の
創造性であったり、視点(ものの捕らえ方)であったり、発想であったりするのだと
いうことです。
実際、中にはそのようなとてもすごいデッサンを描いた友人も多くいました。
1年間で、千枚を超えるクロッキーと、50枚近いデッサンをしました。
というか、それだけしかしていない一年をおくりました。
今考えると、なんてまあ単調で、生産性のないことを、あきもせず繰り返していたと
おもいます。
デッザンに関しては、現在の仕事では多分ほとんど役に立っていないでしょう
(残念ながら・・・)
しかし、クロッキーやデッサンを通して学んだ、物事の捉え方や見方、
物事の本質を自分なりにどのように捉える必要があるのかという
心構えのようなものは、
自分の中に深く植えつけられたのでしょう。
今考えると、自分のとても大事な部分を創ってくれたのだと思っています。
友人には、洋画家や現代アーティスト、人気漫画家、気鋭の民芸職人などになっている
(まあもう20年以上あっていませんので友人ですとは言いづらいのですが・・・)
人が何人もいます。
自分のことは置いといて、そういう人が何人もいるということは、
多分その授業や教え方、考え方は間違ってはおらず、
その友人たちの、視点や捉え方、創造性や技術を育てたのでしょう。
その部分では、良い経験をさせていただいたとおもいます。
もう20年前の話です。取り留めのない話です。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
追記:
影を黒く←のくだり、言葉にすると
「影を黒くする」のではなく、「影の描く」ということをします。
これならば、白い石膏の影も黒猫の影も、画用紙の上に描くことができます。
正面から陽が当たっていても、薄ぼんやりでも、かならず何処かに影がありますから。
それをこまかく描き出していくことができれば、対象物の立体的な姿を
描き出すことができるのです。
簡単ではありませんが・・・
今までの人生の中で、1年だけ、「デッサン」だけをしていた時がありました。
その一年、わたしは毎日毎日一年間、白い紙に、
黒い線を描くデッサンだけを一日中繰り返していました。
そのときのことをちょっと書かせていただきます。
いわゆる洋画家の養成学校のようなところで、
午前中はクロッキーと呼ばれる授業
10分か15分刻みで裸婦のモデルさんがポーズをつくり、それを鉛筆で
B3サイズのワラ半紙に鉛筆で写し取ります。
5分休憩し、またもう一度分。都合6~10枚くらいのデッザンを毎日
月曜から土曜まで繰り返します。
午後は、石膏像のデッサン。
1m以上ある石膏像を、1m以上ある画用紙に、木炭の枝(?)で「原寸サイズ」で
デッサンをします。
1週間で1つの石膏像のデッザンを仕上げます。月曜日に描き始め、
その次の月曜日が講評日。
なので、日曜日もずっと描いていました。
厳しい授業ということではなく、画家志望の学生ばかりが集まり
画家になるために、みな必死になっていました。
若い画家は食べていくのは大変です。
それでも絵描きになりたいとおもって、必死にやっている人々がまわりに多くいました。
わたしも日曜日も教室に忍び込み描いていました。
みんなの前でボロクソに言われるのが恥ずかしいので、
やっていたのかもしれません。
その学校のデッサンの教え方がちょっと変わっていました。
ちょっと想像してほしいのだけれど、
デッサンって、やったことがある人はわかると思うけれど
白黒の陰影で対象物を立体的に表現することが目的で行うのです。
だから、美大受験などではよくあるデッサンは、
影は黒く、明るい部分は紙の白い色を生かして、黒くしないというのが一般的です。
それと、背景を黒く描くことで、背景との色の違いや、距離感を表現するのです。
しかし、そこの授業は少し変わっていました。
「石膏は白い」ので、影を黒く描くのはするのはおかしい。
背景を書いて、石膏像を表現するのは駄目
と言うルールでデッサンをするのです。
まあ言われてみればもっともなことで、
石膏像は立体的なので影はできるけど、白いのです、
なので、陰影を出すために影を黒くするのは、表現する方法(仕方)でしかなく、
その石膏像の本来の色や形を無視した表現の仕方であるから
間違っている。ということだそうです。
もっと言えば、例えば、白い石膏像の代わりに、
黒い猫の剥製が置かれていたとします。
黒い猫は、黒ですから当然全体が黒くなります。
陽の光が当たっていても、明るい部分は白くはなりません、
だって黒猫ですから。
そのため、デッサンで表現する際に、
猫の本来もっている黒猫の黒と、立体感を表す陰影の黒は
「違う」黒を描くことになります。
それを、1つの鉛筆または木炭の「黒」で表現し分けるのです。
バックを書くのは駄目、というのは、
描く対象物をいかに正確にとらえるかを学ぶ授業で
対象物以外のものの力をかりて、
「比較」することで対象物をとらえるというのは、
廻りの力を借りて対象物を見ているということで
これまた、ちゃんと対象物を捕らえようとしていない、ということなのです。
ちょっと想像してください。
その授業で目指している一番美しいデッサンというのは、
たとえば、真っ白い壁の前に、白い石膏像が置かれている状態、
陽の光は正面から当たっている。
対比できる背景は白だし、石膏像も白、陰影も正面から陽があたっているため
ほとんど陰影がない。これを描くことです。
普通のデッサンでは、とても形に表すことは困難です。
しかし、この授業を受けていてひとつのことに気がつきました。
確かに描くことはとても困難だけれど
いかに、白い壁の前に白い石膏像が置かれていたとしても
人間の目で見たときには、
形も、陰影も、立体感もちゃんと見分けることができるのです。
ただ描くのが難しいだけなのです。
人の目が見分けられるものを、いかに画用紙の上に、その人が見たとおり
写し取ることができるかが、画家を目指す人間の
創造性であったり、視点(ものの捕らえ方)であったり、発想であったりするのだと
いうことです。
実際、中にはそのようなとてもすごいデッサンを描いた友人も多くいました。
1年間で、千枚を超えるクロッキーと、50枚近いデッサンをしました。
というか、それだけしかしていない一年をおくりました。
今考えると、なんてまあ単調で、生産性のないことを、あきもせず繰り返していたと
おもいます。
デッザンに関しては、現在の仕事では多分ほとんど役に立っていないでしょう
(残念ながら・・・)
しかし、クロッキーやデッサンを通して学んだ、物事の捉え方や見方、
物事の本質を自分なりにどのように捉える必要があるのかという
心構えのようなものは、
自分の中に深く植えつけられたのでしょう。
今考えると、自分のとても大事な部分を創ってくれたのだと思っています。
友人には、洋画家や現代アーティスト、人気漫画家、気鋭の民芸職人などになっている
(まあもう20年以上あっていませんので友人ですとは言いづらいのですが・・・)
人が何人もいます。
自分のことは置いといて、そういう人が何人もいるということは、
多分その授業や教え方、考え方は間違ってはおらず、
その友人たちの、視点や捉え方、創造性や技術を育てたのでしょう。
その部分では、良い経験をさせていただいたとおもいます。
もう20年前の話です。取り留めのない話です。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
追記:
影を黒く←のくだり、言葉にすると
「影を黒くする」のではなく、「影の描く」ということをします。
これならば、白い石膏の影も黒猫の影も、画用紙の上に描くことができます。
正面から陽が当たっていても、薄ぼんやりでも、かならず何処かに影がありますから。
それをこまかく描き出していくことができれば、対象物の立体的な姿を
描き出すことができるのです。
簡単ではありませんが・・・
by omiseo-en
| 2007-09-07 02:26